鼎談:荻野NAO之×龍村周×山中源兵衛「変態する素材」

2016.05.14  トークイベント 展覧会 荻野NAO之

2016年4月、KYOTOGRAPHIE(京都国際写真祭)のサテライトイベント『KG+』の参加展覧会として、荻野NAO之写真展『閒 会』(まかい)を、清課堂にて開催しました。展覧会期間中には、さまざまなテーマのもとゲストを迎え、荻野NAO之氏とのトークイベントを全5回開催。そこで繰り広げられた話題を振り返り、荻野NAO之という作家の思考や、その根底にある世界に迫ります。

最終回である第5回目のゲストは、織物作家で研究科の、龍村周(たつむら あまね)氏。清課堂当主の山中源兵衛を交えて鼎談を行いました。写真家、織物作家、金属工芸職人──それぞれが扱う素材は、どんな背景をもち、どう作品に影響しているのか。

 

荻野NAO之×龍村周×山中源兵衛

 

つないでいくために必要なこと

荻野NAO之(以下 荻野)

最終回の今日は、織物作家であり、ご自身で織物の研究もされている、龍村周さんにお越しいただきました。清課堂の当主、山中源兵衛さんを交えて、鼎談をしたいと思います。今回のテーマは『変態する素材』。日頃僕たちが扱うあらゆる素材が、作品や仕事に、どのように関わっているのか、掘り下げていきたいと思っています。よろしくお願いします。

龍村 周(以下 龍村)

龍村周といいます。錦の伝統織物の制作や、研究をしております。今日は呼んでいただきありがとうございます。どうぞよろしくお願いします。

山中 源兵衛(以下 山中)

清課堂の七代目当主、山中源兵衛です。本日はよろしくお願いいたします。龍村さんには今日、作品を何点かお持ちいただきました。まずは、こちらの作品についてお話いただきましょうかね。

龍村 

これは、箔の素材を織り込んだ織物ですね。銀箔に硫黄をかませて熱をあてると、化学変化で色が変化します。その仕組みを利用して、グラデーションを出しているんです。

荻野 

あてる熱の温度を少しずつ変えているんですね。僕も、今回の作品に箔を使っていまして。そこで思ったのが、京都って、箔などの素材が簡単に手に入りますよね。やっぱり、いろいろな職人さんが集まる地域なので、こういった素材が身近に手に入るんです。それって、京都の方にとっては当たり前のことなのかもしれませんが、僕はすごく面白いと感じました。

龍村 

いろいろな材料を売っているお店が、身近にありますよね。その材料づくりに携わる職人さんの世界には、あまり知られていないことがあったりして。織物の世界でいうと、織物用の箔をつくるために、金属を切る職人さんの存在。昔は刀で切っていたそうです。こういった職人さんは年々減ってしまっています。だから私は、作品を通して、優れた技術から生まれる素材のいろいろな面を見せていきたいと思っているんです。

荻野 

先日、このイベントの打ち合わせで龍村さんの研究所にお邪魔したとき、その考えを聞いてすごく感動したんです。僕ら写真家を含め、アーティストと呼ばれる人たちは、自分自身の自由な表現を大切にすることが多いですよね。でも、龍村さんはそれだけではない。職人さんたちの仕事につながるような作品づくりを心がけていらっしゃるとのことで。職人さんが減っている今、このままだと技術を伝えられなくなってしまう。そうなると、必要な素材が手に入らなくなってしまうかもしれません。そんな状況だからこそ、自分の作品で少しでも織物の世界を盛り上げて、関わっている職人さんたちを支えることができれば、とおっしゃるんです。すばらしい発想ですよね。

山中 

私たち金属工芸の世界でも、職人さんは減り続けています。ただ、龍村さんのように、「職人さんの仕事を生み出せるようなことをやろう」とまでは、なかなか意識ができていませんでした。本当に、龍村さんの考えには、はっとさせられる気持ちでしたね。

荻野 

でも、清課堂さんも、次世代の若い作家さんを発掘する活動をされていますよね。

山中 

そうですね。ただ、私の場合は使命感というよりかは、私自身がやっていて面白いからという部分が大きいのですが。

おそらくですけど、私たちがやっている金属加工のなかでも、錫を使う器づくりって、そんなに古い歴史があるわけではないんです。錫製品は、もともとはごく一部の特権階級のあいだで、ほそぼそと伝わってきたものだから。広く一般に伝わったのは、おそらく江戸時代の中期ごろ。人々がだんだん裕福になってきて、やっと庶民の手にもわたるようになったのだと思います。一方、錦織っていうのは、着物など、人々にとってなくてはならないものとして浸透していた。ゆえに、非常に長い歴史を持っていますよね。

龍村 

確かに長いですね。

山中 

だからこそ、背負っていらっしゃる責任とかもあるんじゃないかと思います。ご自身で、何か意識されているようなこととかってあるんですか?

龍村 

まだ、ずっしりと責任を背負っている感覚は、そこまで意識したことがありませんね。ただ、織物の世界では、まだまだできることがたくさんあるので、その可能性を大切にしたいと思っています。長い歴史があるぶん、新たなチャレンジをすることは危険だととられてしまうこともあるかもしれません。それでも、ひとつひとつの挑戦が織物業界を広げる一歩になると思っているので、やってしまえ、と思っています。

荻野 

龍村さんは、作品づくり以外にも、復元のお仕事や、織物の研究もされているんですよね。

龍村 

はい。僕が所属している日本伝統織物研究所は、予約制で見学も受け付けています。工房で織物がつくられる現場を見てもらったり、織物を織る体験もしてもらえるんですよ。

山中 

龍村家は、織物界にとって非常に大きな存在。京都に「龍村」のお名前を知らない人は、いないのではというほどです。なかでも周さんと、お父さまの光峯さんは、研究にもとても熱心に携わっていらっしゃいます。先日、私たちが研究所にお邪魔したときは、機織り機が実際に動いているようすを間近で見て、その迫力に圧倒されました。織物に関する資料の多さも、圧巻の一言。ぜひみなさんにも見にいっていただきたいです。

荻野 

すごく大きな機織り機でしたね。この部屋全体を埋め尽くすほどの。

山中 

あの機械は、織物業界でもかなり大きなものの部類に入るんですか?

龍村 

そうですね。大きい方かと思います。

山中 

私たちはどうしても、昔話『鶴の恩返し』のイメージが強くて、小さな部屋の片すみで、カタンコトン、と織る姿を真っ先に想像してしまいます。

荻野 

僕も海外などで機織りの光景を見てきたので、やっぱりカタンコトンと、一人で座って作業するサイズのイメージが強かったですね。

山中 

あんなに大きいものがあるのかと、驚きましたね。

 

“好き” が伝統をつなぐ

荻野 

龍村さんは、とても有名な織物の家系に生まれて、苦労したり、得をした経験ってあるんですか?

龍村 

自分の家族のことを言うのもなんですけど、初代と二代目が、とても大きな存在ですので……そのレベルに到達するには、果てしない長さの階段を登っていかなければならないと思っています。

荻野 

いままでもこれからも、そうやって努力できるのは、やっぱり龍村さんご自身、織物に関わることがお好きだということなんでしょうか?

龍村 

そうですね。確かに好きだとは思います。

荻野 

昨日、知り合いのオランダの写真コレクターがKYOTOGRAPHIEを見にきたので、少し案内をしたんです。彼は花街を見てみたいと言うので、僕が長年写真を撮らせてもらっている置屋さんに行ってきました。そのコレクターは、教育にも興味があるみたいで、女将さんが入ってきたとたん「あなたはどうやって、日本の伝統的なアートを弟子たちに教えているんだ」と、非常に単刀直入に聞くんです(笑)。それに対して女将さんがおっしゃったことが、非常に面白かった。「若い娘たちにとっては、芸ごとをいかに好きになれるかが大切。好きになる気持ちの引き金を引っ張り出すのが、師匠の努めだと思う」と。好きになれば、あとは勝手にそれぞれが努力していく。そういう意味では、お祖父さまやお父さまが織物に関わっている姿を間近で見続けてきた周さんにも、自然と“好き”の気持ちが培われてきたのかもしれませんね。

 

変える素材、変わる素材

荻野 

織物って、一見平面ですけど、縦糸と横糸から成る構造はとても立体的です。完成された作品を見ても、模様や糸の種類によって凹凸があったりしますし、織物は立体物だと実感しています。源兵衛さんも、立体物を扱う職人さんですね。お二人にとって、立体物を作り上げる感覚って、どんなものなのでしょうか? 糸や金属の形を、どんどん変えていく過程というか……。

まさに、今日のテーマ『変態する素材』の話に近づいてきましたね。龍村さんは、織物をつくられるときって、あらかじめ図面みたいなものを描かれるんですか?

龍村 

設計図のようなものを準備することが多いですかね。でも、細かいイメージは、実際に織っていくなかで組み立てていきます。この模様を表現するには、どの糸を使うのがいいとか、この素材の糸を入れると面白くなりそう、とか。だんだん、頭のなかで立体的な塊になっていく感覚です。

山中 

私の周囲でものづくりに携わっている人は、3種類のタイプに分けられるような気がしています。ひとつめのタイプは、スケッチをたくさん描いて、そのなかからベストなものを選ぶ人。ふたつめは、同じ図面を何度も引き直しながら、精度を高めて考える人。そして、みっつめは、つくっていくうちに何とかなると思っている人。私は、みっつめのタイプです(笑)。あまり考えずに、つくり始めてしまいます。龍村さんは、どんなタイプですか?

龍村 

私には、全部のタイプが当てはまるかもしれません。絵や設計図を一生懸命描くこともありますし、「とりあえず織ってみよう」ということもありますね(笑)。

山中 

オールラウンダーですね(笑)。織ってみてから考えることもできるんですね。

龍村 

ある程度は、ですが。やっぱり織っているうちに、事前に描いていたイメージと違うものになっていくこともありますからね。糸の質感や色、太さなんかにも左右されて、想像と違う形になっていく。だから、その都度柔軟に対応する力も必要なんです。そんなところも、織物の面白いところだと思っています。

山中 

やっぱり、一本の糸の質感次第で、作品のイメージが大きく変わることもあるんですね。金属の世界にも、素材に左右されることがたくさんあります。例えば、青銅は堅くてもろいので、やり直しがきかない。一度形づくってしまったら、もうどうしようもないんです。一方で私が扱っているのは、とても柔らかい錫と、ひたすら伸びる銀。形を変えやすいので、ある程度は修正も可能です。焼き物のように、人がいっさい手を出せない工程もありませんし。

荻野 

そうはおっしゃいますけど、やっぱり技術あってのことだと思いますよ。さすがです。

山中 

やっていくうちにどんどん覚えていくことも、職人には必要ですからね。ある程度、トライアルアンドエラーでつかんでいく感覚っていうのはあります。

荻野 

いかに技術を駆使して素材をコントロールしていくか、ということですよね。

山中 

“素材をコントロールする” って、なんだかぐっとくる言葉ですね(笑)。

龍村 

そうですね、自然のものを扱うことが多いと、使いこなせたときの喜びみたいなものがありますね。

山中 

試行錯誤しながら、なかなかうまくいかなかった経験とか、ありましたか?

龍村 

糸を重ねすぎてイメージと変わってしまったり、模様をきれいに出せなかったということも、いままでに何度かありました。でも、最後はどうにかするしかないので、昔からの知恵と工夫をなんとか駆使しながら、完成させていく感じですかね。

 

移り変わる素材

山中 

荻野さんの作品に使われている雁皮紙は、今後もう手に入らないかもしれないんですよね。

荻野 

そうなんです。越前の職人さんが作った手すきの雁皮紙を使ったのですが、そこが廃業してしまって……。この職人さんの腕が、本当にすばらしかったんです。

今回の展示には、掛け軸のように表装して飾っている作品がありまして。その制作に協力いただいた表具師さんの言葉が、とても印象的でした。「雁皮紙に写真をプリントして、よく紙が剥離しないね。よっぽど腕の良い職人さんがすいている紙だよ」と。プリントの過程では、液体を塗ったり水で洗ったり、何度も紙を濡らす工程があります。そんなことをすれば、普通は雁皮紙が剥離してしまって、水ぶくれみたいになってしまうとのこと。きちんとプリントできるなんて、ほぼありえないと言われました。

それを聞いて、廃業してしまったことが、なおさらまずいと思うようになったんです。ほかの雁皮紙だと、うまくプリントできないかもしれない。早く、別の紙でテストをしてみなければいけないと、ちょっと焦っています。

山中 

もしも、うまくいかなくなってしまったら、雁皮以外の紙を使うことも、選択肢として考えていらっしゃるんですか?

荻野 

じつは僕、これまで何度も同じように、あちこちから追い出されてきたんです(笑)。昔愛用していたスライドフィルムが生産中止になったり。それからは、デジタルをきちんとやっていこうと思って、良いインクジェット紙を見つけると、その紙もなくなっていきました。

プリンタやインクには、どんどん新しい技術が取り入れられてありがたいですよね。だけどそのぶん、数年後にはメンテナンスさえしてもらえなくなってしまいます。そうなると、もう同じ方法ではつくれないんです。

山中 

八方ふさがりですね(笑)。

荻野 

そうなんですよ(笑)。参ったなという感じです。織物の世界でも、そういうことってあるものなんですか?

龍村 

ありますね。私もよく悩まされています。以前の作品をもう一度織ることになったとき、同じ糸だと思って仕入れたものが、違うものになっていた。どうやら仕入れ先の製造所が変わったみたいなんです。同じものとして売っているけれど、色や太さが少しずつ違っていて……。だから結局、全く同じものを再現することはできませんでした。

山中 

織物って、いろいろな人の手と、材料と、あらゆる機械が集まってできるものなので、どれひとつ欠けても同じものがつくれなくなってしまうんですね。

龍村 

材料をつくってくれる職人さんも減っていますし。必要な材料が手に入らなくなるのは、つらいし悲しいですよね。

山中 

やっぱり、龍村さんがおっしゃっていたように、もっと業界内に仕事を創出していけるようなことを考えないといけないのかもしれませんね。

 

人の手にわたり、変態していくものたち

山中 

私、京都の職人さんたちがよく「やってみなはれ」って言うのが好きなんです。男気がありますよね。

荻野 

源兵衛さんも、僕に「やってみなはれ」と言ってくださったことがありましたね。先ほども少し話に出た、掛け軸の形で展示する写真について、考えていたときでした。どうもしっくりくるイメージがなくて、うまくいかないなと、半ばあきらめていた時期があったんです。でも、何かの拍子に、ふとアイディアが湧いた。でももう、展示まで時間がありませんでした。そんななか源兵衛さんに話してみたら「やってみなはれ」と言ってくださった。そのときに「いまからだとちょっと間に合わない」と言われていたら、きっとこの形では展示できていなかったと思います。

龍村 

職人さんが使う言葉って、楽しいですよね。はっと気づくことがあったりして。でも、僕らの世界では、その言葉の意味を、使っている本人がよくわかっていないことがあるんですよ。

たとえば、染料の色の話をしていて、「底色が美しくない」と言われるんです。それで、“底色”の意味を聞いても、職人さんは答えられないんですよ。父が言うには、糸の奥の奥、深いところの色が“底色”で、その色に透明感があるほうが良いということらしいんです。澄んでいなければ、あまり良い色が出ないと。職人さんは、言葉の意味を感覚で理解して、普段から使っていても、いざそれがどういう意味か問われると、言葉にして説明することができなかったりする。面白いですよね。理解しているけれど、説明できない。職人たちの不思議な共通言語なんです。

荻野 

僕も、表具師さんに言われた言葉で、「雁皮が風邪をひいている」っていうのが印象に残っています。

山中 

紙が風邪ひくんですね。

荻野 

そうなんです。雁皮の油分のせいなのか、何が原因なのか、はっきりとはわからないみたいなんですけど。たまに、どうしてもうまくプリントできなかったり、表装できない紙があるんです。色がちゃんと乗らなかったり、にじんでしまうような。これを、職人さんは「風邪をひいている」と言うそうで。すごくユーモラスですよね。それからは、なんだか僕も紙が憎めなくなっちゃいました。うまくいかないことがあっても「も〜、仕方ないなあ」と(笑)。

 

多くの人の手にわたること

荻野 

お二人が関わっていらっしゃるのって、ひとつひとつのものをしっかりと届けていくことが大切な世界なんだろうなと思うんです。決して、大量生産ではないですよね。実際に、そういうのを意識されたことってありますか?

山中 

じつは、大量生産も小ロットも、どちらもやっていけたらいいのに、と思うことがあるんです。自分の納得するものを追求しようとすると、どうしても高価なものになってしまって、少ない生産にせざるをえません。でも、やっぱり多くの人に触れてもらえるものをつくりたいとも思っています。つまり、リーズナブルな価格のものを、たくさんつくりたい気持ちもある。安くたくさんつくる方法があればいいなと、いつも頭の片隅で考えていますね。高価なものにもリーズナブルなものにも、それぞれプラスとマイナスの面があります。だから、両方やってみたいんです。いまでこそ、デパートでも錫の食器を見かけることがあります。でも、私が仕事を始めた20年前は、ほとんど出回っていなかった。だから、もっともっと、錫製品が人々の心に入り込んで、生活の一部になってほしいと思っています。

荻野 

ひょっとするといつか、源兵衛さんが携わったものたちがデパートに並ぶ日がくるかもしれませんね。

山中 

そもそも、金属の埋蔵量に限りがあったりするので、なかなか難しいことではあるんですけどね。

荻野 

一方で織物は、昔から多くの人の手にわたってきたものですよね。もちろん、最高級のものは、限られた階級の人たちのものだったでしょうけど。それ以外であれば、着物だったり生活用品だったり、いろいろなところで織物が使われてきました。

龍村 

そうですね。日本の経済を支えてきたものでもありますからね。みなさんが着物を着ていた時代は、職人さんが忙しすぎて寝る暇もなかったみたいですよ。

山中 

それほど需要があったんですね。一番のピークは、いつごろだったんでしょう?

龍村 

ピークは昭和40年代後半くらいでしょうか。昭和と聞くと、意外と最近のことで驚かれるかたも多いんです。でも、当時は着物や帯をたくさんつくっていたそう。ただ、そこからはもう、下がりっぱなしですね。西洋の文化が浸透して、どんどん着物を着なくなってしまったので。

 

痕跡によって変態する

荻野 

僕は今回の展示で、リアルの力を表現したいと思ったんです。たとえばの話ですが、ある人との思い出を残したくなったとします。そこで、つい先ほどまでその人がいた空間などの“痕跡”をとらえた写真があった場合、その痕跡から、生々しく気配を感じられることがある。顔や姿が写っていなくても、“その人”を確かに感じるんです。痕跡って、非常に興味深いものだと思います。龍村さんの作品にも、ご自身の手形が施されたものがありますが、これも痕跡を残すような意識だったのかなと感じました。

龍村 

そうですね、痕跡を残したくて。赤ちゃんとかも、記念に手形を残したりしますよね(笑)。あとは、お相撲さんや、ハリウッドスターも。世界共通で、似た感覚があるのかもしれません。

荻野 

やっぱり、織物にも写真と通ずる感覚があるのかもしれませんね。僕、織物で写真をつくれたら面白いなと考えていたのですが、すでにもう、フォトグラム的な写真のひとつなんですね。非常に面白い。錫工芸の場合は、金槌の一打一打が痕跡になりますよね。

山中 

私にとって鎚目は、痕跡というよりも、ひとつの表現かもしれません。私が痕跡としてイメージするのは、職人がつくる過程で残されるものではなく、お客さんが使っていくうちについていくもの。先ほども少しお話ししたように、錫はとても柔らかい素材です。だから、私たちがつくる器も、とても柔らかい。落としたらへこんでしまうし、爪でひっかいて跡が残ることもあります。すると、使っている人の生活や人柄なんかが、器に現れてくるんですよ。たとえば、お料理屋さんで使われているうちの食器が、数年に一度、メンテナンスのために戻ってくると、お店によって器の状態が全然違う。どんな状態が良いとか悪いとかではなく、器を通して個性が見えることが、面白いんですよね。

うちでも、昔から使っているお酒の徳利があって。それも、いろいろなところがボコボコへこんでいるんです。小さいころ、お酒を運ぶ手伝いをしていて落としてしまったこととか、集まった親戚が酔っ払って、その辺に転がしていたことなんかを思い出します(笑)。

荻野 

思い出が、器に刻まれているんですね。ほかの器だと、割れてしまって使えなくなったりしますもんね。

山中 

そうなんです。柔らかいからこそ、跡が残っていくんですよね。

荻野 

ある意味、食器として使っていたものが、その家のオブジェになっていくというか。ただの食器が、使う人の手によって変態していくんですね。

 


龍村周

龍村 周 / たつむら あまね

曽祖父に初代龍村平蔵(号・光波)、祖父に二代龍村平蔵(光翔)、父に織物美術家龍村光峯を持ち、自らも高機を織り、錦の伝統織物の後継者となるべく日々制作に取り組む。
企業のエントランスに飾る作品や神社に納入した作品などを多数制作。また日本の伝統織物の継承や活性化などの取り組みを多岐にわたって行い、能や組みひも、刺繍など「糸」に関連する方々とのプロジェクト活動、さらに織物文化事業として工房見学や機織り体験や織物職人を招きサロンを開催するなど織物文化を広めるための活動に取り組む。
織物研究の分野では歴史文化工学会(Society for Science of Culture and History)にて研究発表等も行う。
個展や講演、ワークショップなども毎年多数開催。同志社大学ではプロジェクト科目の嘱託講師として学生と織物文化活性化を目指したプロジェクトにも取り組む。

(2016年現在)

 

荻野NAO之

荻野NAO之 / おぎの なおゆき

https://www.naoyukiogino.jp/
東京生まれ、メキシコ育ち、京都在住。
KYOTOGRAPHIEオフィシャルフォトグラファー。
名古屋大学理学部卒業。 第一回日本写真家ユニオン大賞。

主な参加フェアー
・イギリス:Photo London (2015)
・オランダ:Unseen Photo Fair Amsterdam (2015)

主な参加フェスティバル
・ウズベキスタン:Tashkent International Photobiennale (2008, 2012 ,2014)
(招聘作家作品展、国際写真コンテスト審査員、Master Class講師)
・中国:Pinyao International Photography Festival (2007)

写真展
国内外多数(アメリカ、メキシコ、日本、他)

主な出版物
・英語版写真集 「A Geisha’s Journey」(2009)
・フランス語写真集 「Mon journal de geisha」(2008)
・日本語写真集 「Komomo」(2008)

(2016年現在)

 

山中 源兵衛 / やまなか げんべい

1969年 京都市生まれ
2007年 七代山中源兵衛襲名
江戸時代創業の錫・銀・各種金工品の専門店にして、現存する日本最古の錫工房「清課堂」当主。 茶器、神具、飲食器などの伝統的錫製品を製作する傍ら、現代感覚にあふれた金工品のデザイン、店舗敷地内にあるアートギャラリーの運営にも携わる。

(2016年現在)


 

トークイベント