2017年3月14日~3月26日、佐故龍平 展覧会 「積層の景致」を清課堂にて開催いたしました。
展覧会期間中の3月19日に、飯野一朗 教授(東京藝術大学教授 工芸科彫金/2017年3月退官)を迎え佐故龍平との対談を司会に当主・山中源兵衛を交えて開催。
杢目金について、また作家としての姿勢や制作についてなど多岐に亘るお話をご紹介いたします。
佐故龍平の杢目金について
山中源兵衛(以下、山中):
金属工芸に長く携わってこられた飯野先生の目からご覧になって、佐故さんの*杢目金の表現についてなど、どのような印象をお持ちでしょうか?まずそのあたりからお話いただけますか。
飯野一朗 教授(以下、飯野):
実は、3年か4年ぐらい前に、たまたま友人とでかけた軽井沢ニューアートミュージアムのギャラリーで初めて佐故龍平さんの杢目金を見たのです。その時は、佐故龍平さんという名前も存じあげなくて、ただ頑張ってる人がいるな、という印象で。友人ともこういう人には頑張って欲しいねと話をしていたんですよ。そして、今回、清課堂さんからいただいた佐故さんについての資料を沢山読ませていただいた上で、改めて作品をみたわけですが…ご自身でしっかりと考えられていて、方向性としては間違っていない。チャレンジ精神も豊富にあるし、いいなという印象を受けました。例えば、佐故さんは、ずいぶん多くの賞を受けていますよね。でも賞が多いと注目の的になって、僕なんかもそうだったんですけど、あいつは次なにをやるんだろうっていうのをとても期待されるから、今年はどうしようかと胃が痛くなるほど考えたり、周りはどんな印象を受けただろうか?とかいろいろ気になると思うんですよ。でもそれはあまり気にしないで。このまま頑張って行って欲しいですね。ところで、杢目金の研究者や作家というのは日本だけでなく、世界中に多くいるわけで。私の周りにもたくさんいますが、作風はいろいろです。佐故さんの場合は*四分一系統の地金が多いですね?
佐故龍平(以下、佐故):
そうですね。四分一がかなり多いと思います。そして今は、黒四分とか白四分というよりは、15%とか30%とか45%とか割合を指定して作ってもらうようにしていて、それを色の濃いものから薄いものまで大体3種類くらい、多い時は5種類ぐらいの四分一を使っています。
*杢目金(もくめがね):杢目金とは、何層もの色金(日本古来の合金で金、銀、銅などを様々な比率で混ぜたもの)を鍛接(加熱圧着)し、彫りや捻りなどを加え、木目状の模様に仕上げる技法、および木目状に仕上がった金属のことである。
*四分一(しぶいち):金属工芸で使われてきた日本古来の色金のひとつで銀と銅の合金である。合金における銀の比率が四分の一である事から名付けられた。
杢目金の魅力を引き出す造形とは
山中:
私は若い世代の金工を志している人たちとふれあうことが多いのですが、その中で感じるのが、杢目金というのは、若い世代、特に大学で金工を学んだ人たちが一度は通り過ぎる興味の対象なのかなということなんです。見た目から入る興味もあるようですが、実際に作ってみると、作ることも楽しくて、それで杢目金にはまったという人が私の周りには多いんですよ。それでみなさん、最初は杢目金の材料造りみたいなところから興味津々でやりはじめるんですが、じゃあ次にそれを使ってなにを作るかということになったら、結構そこで止まってしまうことが多かったりします。
そのこともあって、杢目金は何に用いるのが良いのか、あるいは元々杢目金というものはどんな形に落とし込むのが適しているのか、そういうところに常々私は疑問を感じたり、興味があったりするわけなんです。そこで佐故さんの作品をみると、佐故さんの場合は今回出展されているような器物でうまく表現されているなと思いますし、「アメリカの杢目金」という本に載っているアメリカの作家さんのものなどをみてもそう感じます。そのあたり飯野先生はどのようにお考えでしょうか。あるいは飯野先生ご自身が杢目金を使うとしたらどのようなものに使われますか?
飯野:
僕が今つけているこの襟章も杢目金なんですよ。赤、白、イエローっていう3種類の金の杢目金です。こういうふうに装身具には結構よく使う。だけど、杢目金というのはそれ自体の魅力が大きいから、かえって使い方は難しいと思うんです。作品の中で、杢目金の模様と、ものの形と、どちらをメインにするかというのが非常に難しい。今回の展覧会でいうと、和室に展示している額、あれなんかはいわば「原型」ですから、杢目金そのものの魅力を表現しやすいのではないかと思います。あとはなるべく平面の多い形態の方が杢目金の魅力を引き出しやすいのではないかなと。例えば箱とかね。
それに関してもうひとつ。日本の伝統工芸の場合だと、花器のように口をすぼめた形にして、内側をみえないようにすることが多いんだけど、外国人作家の場合は、例えば皿の表面など、見えるところに杢目金を使う。だからそういう使い方もいいのかなと思いますね。実際使うとなると難しいこともでてくると思いますが。
そして佐故さんの作品をみると、開口部を大きくして内側に銅の*色あげをしていたり、金の箔を貼ったりしているものがあって、内側もいろいろ工夫されているようでいいなと思いましたよ。皿のような形のものも作っているんじゃないかと思うけど、やはりそういう形のものが杢目金の魅力を一番引き出せるのではないかと思ったりします。例えば、僕なんかは杢目金の場合、あまり形に変化をつけすぎるとうるさいかなと思ってやりません。まぁこれはもう好みの問題というところもありますけどね。
佐故:
飯野先生の今のお話に関連してなのですが、僕は今回、鉢を初めて作ったんです。これは両面に模様があります。実は少し前から、皿とか鉢のように広い形で、内側と外側の両方に模様があるものを作ってみたいと思っていて。それがこの展覧会に出している新しい作品のひとつなんです。
*色あげ:銅合金の表面の化成処理方法の一つ。銅および様々な銅合金を薬液の中で煮込むことにより、表面に酸化皮膜を形成させ耐候性を付け、独特な発色の表面に仕上げることである。「煮色仕上げ」「煮上げ」「煮色着色」などとも呼ばれる。
目立たせずに際立たせるということ
飯野:
杢目金というのは、技術的にはもうかなりやりつくされているというか、例えば、赤銅と四分一やなんかをこう重ねてそれを彫って叩いてのばすとこういうふうになるとか、この模様はこんな風に作っていくとかね。そういうのがわかってきている。技法の研究や解明が進んでいるから昔作られた杢目金も同じように再現することができる。だからあとは、どれだけその技法を実際に使っていけるかということと、どれだけ効果的にうまく杢目をだせるかということがポイントになってくるかと思います。それとね、杢目金ってあんまり目立たなくてもいいと思うんだ。一見、全体が白っぽく見える器でもいい。でも傍に行って見ると、あぁこれはなんか違うんだなと、そういうものでもいいのではないかな。この襟章なんかもそうなんだけど、一見、金色にしか見えない。でも本当はこういう風に作ってて杢目金という模様なんだよって言うと、もっとしっかり見ようと女の子が傍に寄ってきたりするしいいよね。(笑) そういうアクションのつけかたもある。杢目金というのは目立たせることは考えなくてよいのかもしれない。
佐故:
なるほど…。今回の展覧会の作品でいうと、茶室に置いている一輪挿しのような形のものが、いま飯野先生がおっしゃったような感じで、あまり目立たないというところを狙って作った作品なんです。これは四分一と銀とかで結構淡い色合いの模様にしています。ほかにも、下の方は敢えて彫らずに、というか、あまり模様を出さないようにして上の方だけをたくさん彫って意図的なコントラストを出したりとか、そういう操作をしてみた作品もあります。
山中:
飯野先生は欧米の杢目金にもお詳しく、地金のメーカーや作家さんの傾向についてもよくご存じなので、お尋ねしたいのですが、欧米では色がねの意識があまりなく、色あげがない、やっていないとききましたが、それは知らないということではないですよね?
飯野:
知らないのだと思う。色あげに使う大根や梅干しもないしね…。水質も違うし。それに、日本にはわび・さびという文化があって武具にもそれは生きているわけだけど、ヨーロッパなんかは、甲冑は鉄だけど、ピカピカに磨くんですよね。
山中:
あぁ甲冑もそうですか。茶道具なんかでも、日本の場合はいぶしをつけたりしますけど、向こうの銀器はぴっかぴかに磨いてしまうし…。
飯野:
そう。だからすごく目立っちゃってね。あんなにピカピカな甲冑だと森の中に隠れていてもあそこに大将いるって見つかっちゃうんじゃない?と思うけど。(笑) だからね、杢目金というか、こういう地金使った工芸品もひたすら磨くんですよ。色がねとか色あげとか考えないのはそのあたりのこともあるのかもしれないね。
偶然と創意の融合が個性として開花する
山中:
佐故さんの場合、杢目金についてご自身でいろいろ研究も、ご苦労もされてきたと思うんですが、佐故さんの作品の独自性、見どころとはどんなところでしょうか?
佐故:
そうですねぇ、見どころって、自分で言うのは難しいですが…(笑) 杢目金って、とにかく地金を作るのが大変で。地金さえ作れたらあとは削れば模様がでるので、似たような感じになるとかよく言われる技法でもあるんです。例えば、ドリルで彫って叩いたら年輪のような丸い模様がでるとかですね。そんなこともあって、確かに自分の中でもっと独自性を出したいというか、今までにないような杢目金の模様を作りたいと思ってやってきたところはあります。例えばこの作品なんかだと、白い部分や黒い部分、つまりあまり彫らない部分を意識的に作ったりしています。これは黒い層を下の方にたくさんいれておいて、上の方を白い層ばかりにしておいて、たくさん彫ったところに黒い模様がでるようにしているわけです。あるいは、上部が白、下部が黒で、その間に網目模様のようなものを出したりとか。白い地金を中心に作った杢目金と黒い地金を中心に作った杢目金をはぎあわせたりとか。そういうふうなことをいろいろやっています。
杢目金の作品は、最初にデザイン画を描くことはできません。最初はなんとなくのイメージでデッサンだけしておいて、それに近づけながら作成していくんです。こういう模様にするためには、どんな地金をどういう順番で重ねるか、どのタイミングでどう彫るか、どのくらい彫るか、とか。そういう細かな選択肢をいくつも経て、自分のイメージした作品に近づけていくというような作業になります。つまり、杢目金には偶然性の魅力もあります。でも、その中でも作家は意図して模様を創り出しているわけです。だから、見た時に「あ、これは佐故龍平の杢目金だな」とわかってもらえたらとてもうれしいと思いますし、あるいは、見た人が「なんとなくこの杢目金いいな」とか「これお洒落だね」と感じた杢目金が僕が作ったものだったらいいなと思います。
“耳に痛い言葉”こそ成長の糧
山中:
佐故さんが広島市立大学在学中に指導を受けられた南昌伸先生は、飯野先生の東京芸大での後輩にあたる方ですよね?
佐故:
ええ、そうです。僕はその南先生にずいぶん影響を受けたと思います。作風は全く違いますけれど、南先生のセンスというか、感覚にはすごく影響を受けました。そして今回、飯野先生の作品集や図録をみせていただいて、なんとなく南先生は飯野先生の影響を受けてらしたのではないかと感じるところがあって。なんかこう、南先生にとって飯野先生は憧れの先輩というか、そういう意味で影響を受けてらしたのではないかとふと思ったんです。だから南先生を通して間接的に僕も飯野先生の影響を多少受けているのかも知れません。
飯野:
あ、そう? 南とは学生時代には一緒にいたことはないんだけどね。あんまり作品についての話もしなくて。広島市立大学の学部長だった若山裕昭も同級生で、この前も会ったけど、一緒に飲んでカラオケいっただけだよ?(笑)
佐故:
えーと、僕が勝手にそう感じただけですー (笑)
飯野:
ところで、恩師ということでは、僕は非常に大きな影響を受けた*平松保城先生を筆頭に多くの先生方に指導してもらったけれど、僕が感銘を受けた先生方は、学生の頃、僕が間違っている時は必ず「飯野君、これちょっと具合悪いんじゃないか」というようなことをよく言ってくれた。けれど、こちらが「先生」という立場になるとそういうことを言ってくれる人がいなくなるのが困る。佐故さんもね、これだけ賞をもらってると、誰も悪いことは言わないと思うけどね…
佐故:
え、いえいえ、結構ダメだしとかされていますよ!
飯野:
そう?それならいいよ。そういうこと言ってくれる人がいるならいい。それはとても大事なことだよ。僕の芸大の時の友達がある時こう言ったんだ。「そのうち俺たち展覧会やることになるだろ? その時 “頑張ってるね” とか “これいいね” とかそういうことばかり言い合うような仲間になるのはやめようぜ。良いところは言ってもいいけど、むしろ悪いところをしっかり指摘できるような仲間づくりを心がけないとな。」って。僕はその時から今までずっとこの彼の言葉を大切にしながらやっていますよ。本当にね、褒めてくれるだけじゃなくて悪いことを言ってくれる人がいるってことは素晴らしいことなんだよ。
*平松保城(ひらまつやすき):東京藝術大学名誉教授。作品は、東京国立近代美術館、皇居、エジンバラ美術館、ヴィクトリア&アルバート博物館等に収蔵。
失敗 ~ その大いなる必然性とは ~
飯野:
ところで、佐故さんは最初、杢目金を誰に教わったの?
佐故:
実は教わってはいないんです。独学というか、本を読んで見よう見まねでやってみたりとか。それも最近では杢目金について詳しく載ってる本もあるんですけど、僕が学生の頃は、ちらっと書いてるものしかなくって。仕方ないから実際作ってみながら習得していったという感じでしたね。ですからものすごい量の失敗をしました。
飯野:
独学なの? やっぱり失敗の経験がいいんだねぇ。
佐故:
そうですね。今思えばそういうことだと思います。地金って高価なものですから、当時はちょっと吐きそうになってましたけど。(笑) でもあの頃にもう考えつく限りの失敗を全部したような感じで、それがよかったのかな…
飯野:
それがよかったんだ!絶対それがよかったと思う。「若いうちの失敗は買ってでもしろ。」っていいたいくらいですよ。それでうまくものにしていければラッキー。同じ失敗を繰り返してるのはバカだけどね。僕もたくさん失敗してきましたよ。例えば、彫刻やってる同級生から頼まれて引き受けた金属加工がどうしてもうまくいかなくって、苦労したことがきっかけで生まれた作品もある。それに、僕の作品としてよく知られてるハンカチとかリボンとかポケットとかも実はちょっとそれに似た経緯でできたものだったりします。僕ら地金を作る時に、圧延ローラーを通して薄くするよね。その時にちょっとでもゴミが入っちゃったり、あるいは金属拭いてるウエスのはしっこなんかが入るとその部分が凹んじゃう。これはまぁ失敗なんだけれども。
でも、だったらわざとウエスと一緒にローラーかけちゃったらどうだろう?と。そしたらうまくこういうふうに金属に布目がついたんです。これも失敗の経験から生まれた作品といえるかな。このシリーズは20代後半から今までずっと作ってるわけだけど、このおかげでずいぶん助かってる。今朝も日本橋の三越からメールがあって「先生またもう一個お願いします」って。明日ぐらいに、1個といわず相当数作ってやろうと思ってる。(笑) ほんと、失敗の経験を元にして作ったものはいろいろあるし、失敗は役にたつんだ。
作家の「良い年齢」、大切にすべきもの
飯野:
佐故さんのように特色ある杢目金を作る人には、どんどんがんばってもらわないといけないってことなんだけど、そのためには、日本はもちろん、世界に目を向けることも必要かもしれない。例えば、世界には杢目金を石と合わせるという使い方をする作家なんかもいるし。そういうところも見た方がいい。あとは、今まで相当研究、切磋琢磨してきただろうから、それを本という形にしてもいいと思う。そうすると読んだ人に「そうなのか。この人もこういう形で勉強してきたのか。それで今があるのか。」と、感動や勇気を与えられるからね。でも、作家「佐故龍平」を確立するためには、佐故さんがもっている “自分だけのもの” 佐故さんの一番良いものを核として、一本、筋を通しておかないといけない。それさえできていれば、あとは協調してやってもいいし、なにをやってもいいんだよ。その「一本、筋が通っている。」ということが周りからの評価にもつながりますよ。
佐故さん、まだ40才でしょ? 僕が40の時、なにやってたかな…上野駅の歩道橋の上の作品やミキモトの24金のリボンとかがそのくらいかな。それでどんどんやってきて、65才くらいまではね、新しいものにチャレンジしようってことで富士山作ったりいろいろしたよ。絶えずチャレンジしていくのがいいと思う。もちろん、人によっても違うとは思うし、可能かどうかってことはあるんだけど。でもそういう精神をもってないとダメだと思う。そういうふうにしていないと、あいつはあそこ止まりだって褒められてバカにされて終わり。絶えずやらないとね。そして、必ず、佐故龍平としての芯は貫いておく。そうしたらあとはなにをやっても文句いわれないから。
佐故:
僕は玉川宣夫先生の作品をみて杢目金を始めたのですが、とにかく杢目金が好きで。杢目金が好きだから今金工をやってるような感じなんです。それで、どうしても好きでやってる感が強いといいますか、あまりこう新しいことや違うことにチャレンジしようっていう気持が若干薄いかも知れません。作家としてのキャリアは15年ほどになるのですが、実はあまり失敗せずに作れるようになったのが5年くらい前くらいからでして…40才になって、自分がやりたいことと技術がやっと合致してきたかなと感じられるようになったので、今は作るのが楽しいです。
飯野:
一番良い時だね。
佐故:
自分でも40代でどういう杢目金を創っていけるかというのが楽しみだったりします。
飯野:
40代はね、1年ずつ違うよ。
佐故:
違うというのはどういうことでしょうか?
飯野:
やってみたことに結果がでるから、次のステップ次のステップってどんどんいける。
佐故:
工芸会とかで先輩方が、心・技・体というか、感性とか技術とか体力とか そういうのが最も良い時が40代だとよくおっしゃるのですが、飯野先生もそう思われますか?
飯野:
うーん、それはねぇ、50代が1番良い人もいるし、60代で頑張れる人もいるからなぁ(笑)。*増田三男なんて、高校の美術教員を定年退職してからますます積極的に活動してたよ。102才で亡くなられたけど、96才くらいの時にね「ドリルがぶれるようになって。ちょっとだめだな。」なんておっしゃって、それでお手伝いしたことがあるのだけど、それが96才だよ? 佐故さんあと56年もあるじゃない! とにかくこれからは、佐故さんたちの世代が僕たちの世代をどんどん追い抜いて頑張っていってもらわないとね。
*増田三男(ますだみつお):重要無形文化財「彫金」。2009年9月 7日没。
一本筋を通していくことの大切さ
山中:
このあたりで会場から質問をいただきましょうか。
会場からの質問:
飯野先生が佐故先生に「作家として確立するためには、一本筋を通しておくことが大切。」と何度かおっしゃっていましたが、飯野先生ご自身にとっての「筋」はどういったものなのでしょうか? そしていつごろそれを獲得されたのでしょうか?
飯野:
これは私の恩師である平松保城先生の考え方にも共通するのですが、「削ぎとる精神」といいますか…。欧米には、装飾品でも建築でも良いものをどんどん付け加えていくという文化があります。それに対して日本では、例えば茶とか禅の世界でも、できる限りシンプルにする、本質以外は削ぎ取っていくという精神が尊重されます。この削ぎ取る精神で僕は行きたいなと思ったんです。実はどの作品にも技術的に面倒くさいことをたくさんやっているんですよ。だけどそういった苦労をみせることなく表現できれば1番いいという考え方なのです。それを貫いていければと思ってやっています。
ということもあって、佐故さんの杢目金という仕事も非常に大変なものなのだけど、その苦労を感じさせない作品というか、ごちゃごちゃしない、すぅっと気持のよいものが出してもらえたらいいなと思ったりしますね。そして、僕がこの自分の筋といえるものを獲得した時期というと、20代ですね。失敗の経験のところでお話しした作品を創った26~28才頃といえるでしょう。「ハンカチ」なんかわかりやすいかな。板を折っただけでシンプルでしょう?
山中:
佐故さんにとって一本の筋があるとすればそれはどんなところだと思われますか?
佐故:
難しいなあ(笑)。一本の筋…あるのはあるんですけど、なんといえばいいか…例えばですね、僕はこういう茶器や花器などを中心に作っていますが、それは、このような用途のある器物という「枠」の中で表現することを工芸としてとらえているからなんです。そういう枠を作ることが良いのかどうかはわかりませんが、僕にとって工芸というのはそういうものなのです。もし枠をつくらずどこまでも自由に表現の場を広げていくと、僕はわけがわからなくなってしまって、かえって力が分散する気がします。なので、自分で敢えてそういう枠を設けることで力を集中させて表現しているという感じでしょうか。
今までも、これからも、「箱」が好き
会場からの質問:
「形」についてのお話がでていましたが、佐故さんにとって「今までは作っていないけれど、これからは作ってみたい。」あるいは「今まで作ってきたけれど、これからも作っていきたい。」そんな風に思ってらっしゃる器物はありますか?
佐故:
そうですね。これから新たにチャレンジしようというか、積極的に作っていきたいなと思っているのは、先に少しお話しました鉢みたいに、開いた形で、両面に模様を出していくものとかですね。そして、今まで作ってきてこれからも作っていきたいのは茶器。僕は小さなふた物というのが凄く好きで、これはサイズ感が良いというか。自分にとって技法的、大きさ的に丁度良い感じなんです。あまり大きいものだと手に負えなくなってしまうというか、思うようにいかないのですが、茶器くらいの大きさだと結構自分が思い描いたものにまとめられるんです。小さくまとめることがいいのかどうかはわかりませんが、僕は工芸というのはそれぞれ着地点があって、そこに集約するようにまとめるということが大事だと思っています。
そして、個人的にふた物や箱が大好きだということもありますが、僕は工芸ってやっぱり最終的には「箱」だとも思っているんです。つまり、箱って表面だけじゃなく、箱の「中」もありますから、中も当然綺麗に仕上げなきゃいけないし、フタとミがあって、その合口がきちんと合うように作ることも必要ですよね。だからすごく難しいのですが、それをうまく技術でまとめるのが、最終的な工芸の着地点みたいな感じだと勝手に思っているわけです。つまり、茶器なんかもふたがあるものですから、一種の「箱」としてとらえていて、そういうものはずっと作っていきたい。これからも美しい箱を作りたいと思っています。
作品を通して人とつながっていく幸せ
会場からの質問:
佐故さんは作品を誰のため、あるいは、なんのために創っているかということを考えられることはありますか?
佐故:
やはり最初は自分の「創りたい」という欲求があって創りはじめるわけですが…。それで20代の時はまだいいのですけど、30代になって、これで飯も食えないという状況だったりすると、例えばお医者さんのように人のために働いている、人のためになる仕事をしている人がすごく眩しくて。自分がこんなもの作っていて何になる? 誰の役にも立っていないし、好きなだけでやっていることになんの意味があるんだろう? とか思うことなんかもあるわけです。 そんな時、作品が売れると、自分が好きで創っている作品を結構なお金をだして買ってくれる人がいるということで、少しは自分も必要とされているのかなとか、自分の作品を見ることで心が和んだり、うきうきしたりしてくれる人もいるのかなとか思えるんですね。
自分がただひとりで作っているだけじゃなくて、少しは社会と関われているのかなと思えるというか。そういう意味で、作品を売るということはすごく大事に考えてやってきました。当然、飯を食うためということもありますし、今は家族も子どももできたので、よりしっかりと作ってしっかりと売るということを大事に考えています。
ここから未来へー
山中:
最後に、これからの計画をお二方それぞれにお伺いしたいと思います。
飯野:
国の方から頼まれていることもいろいろありますし、そういうのをやりながら、今までの様々な成果物にとらわれず、さらにフィードバックして少し冷静に自分の作品をみつめなおす時間もとって、また新たな前進につなげたいなと。反省を含めて、創意を持って、これからも体力の続く限り、頑張っていきたいと思います。
佐故:
40才になってこれからいい時期だと思うので、先ほど飯野先生におっしゃっていただいたように、どんどん新しいことにもチャレンジして、より良い作品を創っていけたらと思います。本日はどうもありがとうございました。
飯野 一朗 / いいの いちろう
ドイツインターナショナルジュエリーアート協会会員
(公社)日本クラフトデザイン協会会員
東京藝術大学教授 工芸科彫金(2017年3月退官)
(2017年現在)
佐故 龍平 / さこ りゅうへい
1976 | 岡山県玉野市に生まれる |
1999 | 広島市立大学芸術学部デザイン工芸学科卒業 |
2002 | 同大学大学院芸術学研究科博士前期課程修了 |
2004〜 | 日本工芸会正会員 |
(2017年現在)
佐故龍平 展覧会 「積層の景致」の詳細はこちらよりご覧ください。