明治期にはいり、それまで公家・武家を顧客としていた工芸分野が急激に退廃しました。廃刀令により武具の需要が一切無くなり、また遷都により宮中の仕事が激減しました。公家について多くの職人が東京へ移転する中、私共は京都に残り細々と商いを続けていました。当時は金属工芸の仕事が減っただけでなく、公家の多かったここ御所南界隈も寂れる一方だったと推測します。
当時、職を失いかけた我々の唯一の希望は、欧米を主とした海外への輸出でした。その、世界に向けた披露の場が、ヨーロッパ・アメリカで不定期に行われていた「万国博覧会」でした。パリ博で日本の工芸が大好評を得たことから、その後も数多くの工芸品が出品されました。
写真は、1904年(明治37年)のルイジアナ・セントルイス万国博覧会に先祖が出品した金工品が、金属工芸分野「銅賞」をいただいた際の賞状(石版)です。これには60ヶ国が参加し、会期中約2,000万人が来場したアメリカでの大きな博覧会でした。当時自動車、電話、気球などが注目されると同時に、日本の美術工芸も人気を集めました。
日本からは、彫金家「加納夏雄」、「海野勝(みん:王へんに民)」、鋳金「香取秀真」、七宝「並河靖之」など、当時の国を代表する金工作家のほか、陶磁器や漆器、織物なども出品されていました。ただし、出品に際しては明治政府の厳しい選考があったようです。